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なにわの伝統野菜
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毛馬胡瓜(けまきゅうり)
原産地:大阪市 発祥時期:江戸時代
収獲時期:7〜8月
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江戸時代後期に大阪府都島区毛馬町付近(旧毛馬村)で栽培されていた伝統野菜です。黒いぼの半白胡瓜で、収獲時期になるとやや黄色帯びてきます。果肉が緻密でしっとりとしていて歯切れが良いため、主に奈良漬の原料として使用されてきました。また浅漬けや糠漬けにしてもパリッとした食感を楽しむことができます。水分は少なめで、主に末端部にはゴーヤに似た苦味成分も持ちます。
現在主流となる台湾系の白いぼ種が明治末期ごろから普及するに伴い生産量が減少してゆき、昭和10年代には生産されることがなくなりました。一方で、品質が優れているため、交配種の親として活用されていきました。平成10年に、大阪府農林技術センター(当時)によって品種として復活し、大阪なにわ伝統野菜の一つとして種子の増殖や栽培が広がっています。
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もともとは西成群(現西成区)の名産であったようですが、その後大阪城の玉造門(現在の大阪市中央区玉造1丁目)が黒塗りの門であったことから、この門を別名黒門と呼び、江戸時代にこの黒門付近で作られるようになり名産となったが呼び名の由来です。18世紀の色々な文献に、すでに当時の名産として度々登場しています。
長さは約30cm、太さ約10cmの長円筒形で、鮮やかな白い縞が縦に入ります。果肉が厚く、締りがよいことから粕漬けにすると美味しいとの評判でした。しかし明治以降の近代化によって玉造の街は様変わりし、戦後は家庭における漬物需要が減り、業務用の奈良漬用に契約農家のみが栽培するようになったとのことです。近年、大阪の伝統野菜を見直そうとする契機から見直され注目されるようになりました。
勝間南京(こつまなんきん)
原産地:大阪市 発祥時期:江戸時代
収獲時期:7〜8月
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江戸時代末期の万延元年(1860年)に、旧勝間村(西成区玉出)の農家が天満の青物市場問屋年行司宛に「野菜7品目に限り同村内での立ち売り許可願」を申し出て、その中に「南京瓜」と記載があったことから、このかぼちゃを勝間南京と呼んだと伝えられています。
1kgに満たない小型で縦溝とこぶのある粘質の日本かぼちゃです。果皮は緑色ですが、熟すと赤茶色になり甘味が増します。西洋かぼちゃが栗のような甘味なら、こちらは上品な甘味です。
現在でも玉出の生根神社では毎年冬至の日に無病息災を祈願する「こつま南京祭り」が行なわれ、従姉妹(いとこ)煮(南京と小豆の煮物)が振る舞われています。
一時は西洋かぼちゃに取ってかわられ途絶えていましたが、平成12年に木津市場のある漬物店主が和歌山の農家で種を探し当て、今また甦りつつあります。
栽培は江戸時代に遡ると言われますが、明治初年頃すでに天神橋や天満橋付近で盛んに栽培されていたといわれ、明治の終わりごろから東淀川、城東、住吉の各方面へ広がってゆきました。早生、中生、晩生の3系統があり、そのうち早中生は「天満菜」と称されています。
現在も大阪しろなは大阪府の代表的な軟弱野菜で、夏場の野菜料理には欠かせない品種です。大阪市及びその周辺の畑での栽培が多く、しゅんぎく、みつば、ほうれんそうなどと輪作され、都市農業の重要な作物となっています。
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江戸時代から明治末期までが栽培の全盛期であり、四天王寺の僧坊の食料などとして摂州の天王寺村で広く栽培されていました。別名で「天王寺浮き蕪」とも呼ばれ、玉の部分が土から浮き出てろり、台風被害が多かったり、鳥に食べられることもあり、栽培には苦労も多かったようです。
その香り、歯切れ、食味などに優れた蕪として、かっては大阪の名物でした。また明治の初めごろまでは、天王寺あたりは一面に蕪の畑が広がっていたようです。しかし都市の市街化や、蕪の対病性の問題から大正末期にはほとんど姿をみなくなりました。近年、大阪の伝統野菜を見直そうとする契機から見直され注目されるようになりました。
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大阪市東住吉区辺りが特産の白首大根です。かって江戸時代は蕪のように球形に近かったですが、その後明治期以降に品種改良され筒状になります。末端は少し膨大して丸みを帯びており、葉は生毛がなく大きく立派に育ちます。
しかし栽培の中心であった田辺周辺は住宅地となり、また害虫が発生、かさねて昭和25年頃にはウイルス性の病気が発生したことにより、急に姿を消しました。
昭和62年に、大阪市農産物品評会にてある農学博士が田辺大根の品種を偶然に発見し、出品者から種を譲り受け、「大阪府立食とみどりの総合技術センター」にて栽培を復活させました。以降栽培地を広げ、なにわの伝統野菜の一つとして復活しています。
服部越瓜(はっとりしろうり)
原産地:高槻市 発祥時期:江戸時代
収獲時期:7〜8月
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大阪府高槻市の塚脇地区の特産品です。江戸時代の天保年間にはすでに栽培の記録があります。芥川流域の肥沃な土壌、水はけの良さなどから良質なものが採れ、この地域で後継者の育成も行われています。
果長は30〜35cmと、前述の服部黒門越瓜よりは少し長く、形状は尻がやや太いヘチマ型で、淡い黄緑色、縦に薄い緑色の縞が見られます。なにわの伝統野菜としては、守口大根などとともに、もっぱら粕漬け(奈良漬け)などの漬物材料として、農家と業者の間で直接取引されるため、一般消費者の手にはなかなか入らないのが実情で残念なようです。そこでさらなる普及も目的に、平成17年に開始された「なにわの伝統野菜」の認証制度の対象品目となりました。
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大阪府の摂津市鳥飼地区(旧鳥飼村)で、江戸時代から栽培されてきた丸茄子の一種です。大正から昭和初期にかけて最盛期には60件以上の農家さんがあったようです。
どちらかと言えば黒紫色の見た目よりも皮が薄く、果肉は柔らかく、茄子独特の甘味もあります。京都の賀茂茄子によく似ているといわれますが、それよりもやや下膨れです。しっかりした実ですので、煮崩れしにくく、田楽や煮物にも親しまれてきました。
そんな鳥飼茄子も、昭和40年代には栽培農家は1件だけになり、「幻の茄子」と呼ばれたこともあったようです。現在地域一体となっての普及活動が実り、復活しつつあるようです。 |
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特産「三島独活(みしまうど)」は春を告げる茨木の山の幸。旧三島郡にて、江戸・天保年間から栽培されており、「なにわの伝統野菜」にも認定されました。三島独活(みしまうど)の最も大きな特徴は江戸時代から継承されている伝統農法にあります。独活小屋に並べた独活の株の上に、わらと干し草を重ね、発酵させた熱を利用し、温度を保つことで独活を育てています。一切外気に触れず、わらと干し草を押し上げて育つため、一般的な軟白うどと比べて、色が白い、アクが少ない、柔らかい、みずみずしい、甘いと言われています。ただ、この伝統農法には高い技術が必要であるため伝承が難しく、本市もかつては一大産地でしたが、現在は熟練の三島独活農家から技術を継承した千提寺の中井さん一人が生産・販売しています。(茨木市の広報を参考にさせて頂きました
www.city.ibaraki.osaka.jp/meisyo/udo.html)
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今から300年前の貝原益軒の「大和本草」にも取り上げられており、歴史のある食べ物です。市場に多く出回る白くわいや青くわいは中国原産ですが、吹田慈姑は当地の肥沃な自然環境で進化してできた真の伝統野菜です。一般のくわいに比べると、吹田慈姑は味がほっくりして濃厚で、「一度食べたらやめられない」と言われるほどです。
この貴重な野菜も、昭和30年代には水田の宅地化と除草剤の多様化にともない、一時は絶滅寸前まで追い込まれました。もともとお米のような栽培植物ではなく、田圃のお米の副産物としての位置づけだったため、近代化の影響をもろに受けたようです。しかし昭和60年代から地元保存会等の懸命な努力もあり復活しつつあります。
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泉州地域のたまねぎ栽培の歴史は古く、明治時代に導入されました。先覚者が品種改良をし、「今井早生」「貝塚早生」「泉州黄」などの優れた品種を作出し、最盛期の昭和35年には栽培面積が4,000haを越え、全国でも有数の産地となりました。その後、近くの淡路島をはじめ、他府県の栽培面積が増えたことや、安価な外国産のたまねぎが輸入されるようになった影響で、栽培面積は約125ha(平成14年)まで減少しましたが、水稲の裏作用として今でも重要な作物です。
水分が多く、甘みがあり、柔らかいのが泉州たまねぎの特徴です。冷水につけてさらさなくても生食が出来るほどです。泉州におけるたまねぎ栽培の発展は気象、土壌、交通などの立地条件がよかったこともありますが、地域の先覚者たちの研究、改良が大きな力となっていました。これら先覚者たちの業績をたたえた顕彰碑が田尻町吉見、岸和田市土生新田、泉南市新家に建てられています。
江戸時代に発祥し、「水もしたたるほど水分が豊富」なことが名前の由来で、今や泉州や大阪だけでなく全国を代表する伝統野菜にまで成長しました。にもかかわらず、水なすは泉州でしか育たない高級野菜です。理由は特定されていないのですが、この地方の砂地・適当な塩分が含まれた土壌や、古来からの溜池の豊富さ、温暖な気候、また長く門外不出であった多様な栽培技術などが挙げられています。地域を越えた取り組み・広がりがありますが、なかなか真似はできていないのが現状のようです。
その特徴は水分の多さ、皮の極めて薄いこと、ほのかな甘味などで、浅漬けを代表としたお漬物として今や全国区となりました。また、その普及にはクール宅急便の拡大も大きく寄与しました。今後もなにわ伝統野菜のトップランナーとしての役割を担って行きそうです。
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豊能町の高山地区で江戸時代から栽培されているアプラナ科の野菜で、菜種菜(なたねな)の一種です。つぼみができた後に花野菜としても食られるようです。江戸時代のキリシタン大名である高山右近の生誕の地としても有名な豊能郡豊能町高山では、昔ながらの高菜が今も栽培されています。各地に真菜と呼ばれている菜はありますが、高山真菜のような菜は他にはないものだと言っていいでしよう。
その栽培歴はおそらくは2百年から3百年前に遡るのではないかともされています。隠れ里であったことも幸いして、近郊で栽培される他の菜と交雑することもほとんどなく、昔のままの種子が今も受け継がれているのは驚くばかりです。
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キリシタン大名、高山右近の生誕地として知られる豊能郡高山地区で、今から250年以上前の江戸時代に栽培が始まったようです。土を1mほど掘り起こして、堆肥にこの地区特有の真菜(まな)をすり込むという栽培方法や在来種子の採種の方法は、代々の教えの元、今も生産者の皆さんに受け継がれています。また高山牛蒡は、換金作物として重宝がられて、京阪神を中心に出荷され、多いときには10ha以上もの作付けが行われていたという大阪が誇るべき伝統野菜です。
独特の食感そして深い味わいと香りの高山牛蒡ですが、現在の生産者数は、20人を切っているとのことです。また高齢化も進み、労力の必要な牛蒡の栽培や収穫をこの少数の人々が守り続けています。
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大阪天満宮周辺を発祥とする「大阪宮前大根」の香の物を豊臣秀吉が「守口漬」と名付けたことから、「守口大根」と呼ばれるようになったと伝えられています。太さ数センチに対し、長さ約1メートルと細長い根をしています。守口漬などの粕漬けに利用されます。
明治の終わり頃までは守口市で栽培されていましたが、都市化の影響で大阪府内では栽培が途絶えていました。平成17年頃から試験的に再び栽培されるようになり、平成19年にはなにわの伝統野菜にもなりました。近年、守口市で特産品にしようと取組が進められています。
一方、美濃国の長良川沿いの地域(現岐阜県岐阜市)でも、江戸時代からすでに「ホソリ大根」や「美濃干大根」などといわれる細長い大根が栽培されており、切干し大根などに利用されていました。明治時代になると、この美濃干大根が大阪の守口大根に代わって守口漬に利用されたため、この美濃干大根がいつのまにか守口大根と呼ばれるようになりました。したがって、現在濃尾平野で栽培されている守口大根は、大阪の守口大根が先祖ではなく、美濃干大根が品種改良されたものであるといわれています。
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碓井と言えばえんどうの代名詞となっているほどですが、「碓井豌豆」は羽曳野市碓井地区で明治時代から栽培されています。明治時代にアメリカから導入されたBlack
Eyed Marrowfatというむきみ用えんどうの品種を碓井村(現、羽曳野市碓井)に地元出身の農業研究者が導入したのが始まりといわれています。小型で、へその部分が黒く、さやと豆の色合いは淡く、甘味が強いのが特徴です。収穫時期が短く、4月下旬〜5月下旬が旬の時期です。平成20年に17番目の「なにわの伝統野菜」として認定されました。
近年は、より栽培に適していた和歌山県での栽培が盛んになり、従来の碓井豌豆より多収で良品種な「きしゅううすい」や、きぬさやの一種との交配による品種も生まれ(これらを総称して「紀州うすい」と呼ばれる)、和歌山県が一大産地となっています。
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